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時津賢児コラム from france
武道の中味の言語化が必要  
 
「ガッツポーズ」の意味も一様ではない

フランスの劇画や雑誌の中で、日本刀を持ったサムライの画像を見かけることがある。
よく描かれているのだが、日本人の目にはどうもしっくりこない。刀の持ち方、ちょん髷(まげ)、衣装、そして顔付きなどのどこかがおかしい。なぜこんなサムライ像になるのだろう?

サムライといえば、西欧人はまず中世の騎士や三銃士のダルタニアンなどのイメージと結びつける。それに、西欧文化にはモンゴルや中国から受けたさまざまな影響の記憶の蓄積があるから、日本人もそうした西欧の集合的な記憶の中の極東民族の顔になる。結局、日本人もモンゴル人も中国人もみな同じ顔になってしまう。サムライの画像から抱く違和感は、そうした所から出てくるに違いない。
では、西欧とは歴史文化が異なるアフリカ、アラブ、中南米諸国の人々がサムライを描いたらどんな絵になるだろうか? そんな風に想像を巡らしているうち、これと同じことが武道についても言えるということに思い当たった。

BUDOは今や世界語になった。もしもBUDOの中味を一枚の絵で表現することができたなら、どんなBUDOの絵が世界各国から出てくるだろうか? 日本人はそれぞれの絵から、フランス製サムライ以上の違和感を受けるに違いない。
JUDOもKARATEも今や世界語だ。そして世界共通の柔道着や空手着を着て同じような技で戦っている。この状況をみれば、柔道も空手もそのまま世界に広がったのだと誰もが思う。だが、人間の主体的な関わり方という面から見ると、JUDOやKARATEの中味は日本人が考える柔道や空手とは相当違っている。
これを卑近な例で考えてみよう。

今ではどこの国の選手もガッツポーズをやる。だが、その行為の主体的な意味は一様ではない。欧米人は他者との衝突的関係の中で自分を捉えるから、何事につけはっきり自己表現して生きるように教育されている。だから、彼らが勝利の喜びをあからさまな仕草で示すのは、モードでも何でもない。日々の生活様式そのままなのだ。アメリカの根強い人種差別の社会に生きる黒人のガッツポーズには、白人社会に対する示威の意味もある。新興国の選手は国家の重みを背負っているし、国際紛争中の国を代表する選手のガッツポーズには、隣国に対する示威の意味もある。日本人のガッツポーズとはニュアンスも中味も異なる。このように似たようなポーズをしても、主体性の内容には差がある。

大半の日本人は今日ではスポーツ感覚で柔道をやっているのかも知れない。だが、たとえ無意識ではあっても、柔道着に帯を締め、神前や相手に対して礼をするといった行為だけでも日本人は日本の伝統に繋がっている。しかと意識はしなくても、「道場」はただの体育館とは違うし、「柔道」という言葉のどこかに姿三四郎的な「道(どう)」のニュアンスが伴う。日本人はこうした些細(ささい)なことで実は柔道の本質に結びついている。だが、日本とは伝統が全く異なる文化の人々のJUDOにはこうした絆(きずな)はない。「我々のJUDOはもはや(日本の)柔道ではない」というフランス柔道連盟の発言には、日本柔道とフランスJUDOは異質なのだという自覚があり、同時に自由に取り組むことによって到達した彼らのJUDOに対する自信が表れている。



「日本武道」と「各国武道」の二種が並存

武道は日本から異国に紹介され、その国々の文化土壌に根ざした身体活動の一環として実践されてきた。国際大会で立派な成績を収めるレベルに達した国の人々は、彼らなりの目的と意味を持って練習しており、自らのBUDOに自己同一化できるだけの主体性があると言える。だが、そうした外国人たちがイメージするBUDOの内容は、日本人がイメージする武道とは相当の開きがある。BUDOなのだが、日本人からみるとどこか武道的でない。直截(ちょくせつ)に言うならば、世界中に広がっているBUDOというのは、日本人が考えたりイメージしたりする武道とは異質なのだ。それを諸外国の人間がまだ正統の日本武道を消化していないからだ、と断定する時代は既に終わった。少なくとも、柔道、空手などの競技武道においては、日本が唯一の正統だとうた謳うことはもはやできず、日本が抜けても世界大会は成り立つ状況ができている。

だから、「世界の中の武道」というのは、日本人の考える武道がそのまま世界中に広がってできたのではなく、実は世界諸国から出てくる異質なさまざまな文化的要素を反映させてできたものだ。それは日本武道の直接的な発展形態ではなく、超日本的なものだ。厳密に言えば、現在では「日本武道」と「各国武道」の二種があり、「各国武道」から出てくる世論の総体が「世界の中の武道」を作っており、世界の武道界はこの三つのベクトルで動いている。

日本国内だけだとなかなか変化し難い日本武道界も、いったん国外に出てインターナショナル化したものは受け入れやすい。ガッツポーズをはじめ、試合に臨む選手の態度、監督やコーチと選手たちのコミュニケーションの仕方、練習内容の合理化、ブルーの柔道着、試合ルールの改変など三十年前には思いもよらない変化が、日本の武道界に起こっている。これは「世界の中の武道」のベクトルに引かれて起こったもので、日本武道界が率先して行ったものではない。つまり、日本の武道は「世界の中の武道」に影響されることによって変化している。

すなわち、現在という時点で世界中の武道を眺めてみると、各国の歴史文化と社会状況を微妙に反映させた「世界の中の武道」というものが存在し、日本の武道はそれと影響関係を保って並行的に存在している。だからここ三十年来、「世界の中の武道」の存在力が強まっていくに従って、日本の武道も変貌(へんぼう)してきた。

物事は異質なものを導入することによって変化する。過去の武術、武道もそれぞれの時代の新要素を取り入れることによって変化発展した。明治から昭和にかけても武道の変化はあったが、その度合いは「世界の中の武道」の影響の下に生じたここ三十年来の変化には及ばない。これからも日本の武道は「世界の中の武道」との関係の中で変貌していくはずだ。 それは柔道、空手ばかりではない。剣道はまだ日本が強いから「世界の中の剣道」という世論の影響力を押し返して、日本剣道の路線で行くことができる。だが、仮に剣道が外国に敗れる日が来たなら、「世界の中の剣道」の発言権が大きくなり、日本剣道との新しい力関係が生まれてくるだろう。そうなると、「世界の中の剣道」の路線で進むグループと、それとは独立に動く剣道グループが生まれてくると思う。

望むと望まないに関わらず、こうしたさまざまなベクトルは、いい悪いの問題を超えた現実の動きとして「世界の中」に既に存在しているのである。そうした現状認識がないと、効果的な動きは難しいと思う。



武道の中味の言語化を

歴史を見ると、武道のレベルや内容は、ライバルとか敵の存在を意識することによって変化してきた。現在では武道の実践空間は「世界の中の武道」の成立とともに広がっており、さまざまな異質な要素が近代武道に入っている。

例えば、大相撲などは体形も体力も違う外国人が入ってくることによって、技法的な危機状態さえ生じ、これから先もいろいろな変化が生じてくるだろう。日本語をまともに話すことができない人間が国技である相撲の横綱になるというのは、考えてみれば不思議な状況である。また現在の国際相撲連盟の活動など、一昔前には誰が予想しただろう?

このような現状の動きを見ると、日本の武道の将来は「世界の中の武道」と全く独立に考えていく訳にはいかない。なぜなら、日本の武道は「世界の中の武道」に対して働きかけ、そこから跳ね返ってくる要素をもとにして変化しているからだ。だから、日本の武道がこれから発展していくためには、質の高い反応が跳ね返ってくるようなBUDOの世論が「世界の中」にできることが必要で、そうなるように働きかけるのが日本の使命だといえる。それは具体的にはどういうことだろうか?

勝負の仕方や練習方法などはパターンとして理解できるが、武道の真面目(しんめんぼく)である勝負と心の関係などは非常に伝わり難く、これが「世界の中の武道」と日本武道の間の障壁の原因であり、そこからさまざまな問題が生じてくる。武道の中味に関するこうした問題を暖和するためには、文化的コミュニケーションを強める以外ない。具体的に言えば、武道の伝書や論理をできるだけ多く外国語に翻訳紹介し、「世界の中の武道」に関わる人々の一般教養レベルの向上を図る。併せて、武道の理論研究をテーマ別に深く掘り下げ、それを次々と翻訳紹介していく。この作業を通じて、日本人の物の考え方が相対化されていく。いい反応が「世界の中の武道」から出てくるに違いない。そういう努力が必要だと思う。

日本人だけの武道の時代なら、高度の技があれば、あとは不立文字(ふりゅうもんじ)でよかったが、「世界の中の武道」に対しては、技ばかりではなく武道の中味を言語化していく努力が欠かせない。なぜなら「世界の中の武道」の武的知識のレベルが高まるにつれて、そこから跳ね返ってくる反応の質も高まり、日本の武道はそれを起点にして発展できるからである。逆に、武的知識のレベルが低ければ、世界武道の世論は当然低いものになり、日本もそれに流されていく。まだまだ日本の武道人の努力の余地は大いに残されている。

(財団法人 日本武道館 発行 /2001.9月刊「武道」より)
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