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時津賢児コラム from france
モロッコとスペインのセミナー 2008.3
 
3月7日から19日までモロッコに行ってきました。
興味ある方は世界地図を開いてみて下さい。
モロッコ最北部の中心都市タンジェから約80キロ南のララッシュという町で4日間のセミナーの指導をしました。その後、車でマラケッシュまで南下し、当地で2日過ごした後、カザブランカまで北上し、当地で2日間のセミナーをしてからララッシュに戻りました。ララッシュで最後の稽古をして、再びカザブランカ経由でフランスに帰還。
これが今回のモロッコ滞在の概要です。

もう少し細かく説明しましょう。
7日はフランスのツルーズ空港から出発。カザブランカを経由して夜の12時にタンジェ空港に着きました。一時間の時差があるのでフランス時間ではすでに午前1時で、少し眠けまなこで税関を通過しました。
外に出た途端にワーッとした熱気を感じ、視線を正して目の前を見ると40人もの生徒の皆さんが出迎えに来てくれていました。熱い歓迎でいっぺんに目が醒めてしまい、花束までもらって家内ともども感激のモロッコ入りをしたことでした。
面々の中には、スペインのオスカーとイタリアのサビノの顔も見え、一層心強い思いがしました。
オスカーもサビノもプロフェッショナルの自成道の指導者としてやっています。オスカーは50歳でスペイン東北部のビルバオ在住。サビノは53歳でイタリアのミラノの南部でそれぞれ道場を構えて本格的にやっています。

私の気功の先生である矢山利彦さんが、今から4年前に、「時津さん、50歳以上の達人集団を作ったら面白いでしょうね。どうですか?」と言われたことがありました。
それが今ではほとんど現実化しつつある気がします。私の弟子の中堅部の人はみんな既に50歳を越えるか、さもなくば40台の後半にかかっていますが、みんな若い人を軽く凌ぐ力量を持っています。
オスカーもサビノも自成道をプロフェッショナルとしてやっているばかりでなく、それが生き甲斐もしくは生きる喜びになっていると感じます。
彼らのことはいずれ書く機会があるでしょう。

さて、モロッコにもどります。
ララッシュという町はタンジェの南の漁港町です。新鮮な魚料理を毎日たらふくご馳走になりました。
道場の指導者はヤヤ・サデイックというお医者さん。46歳で空手暦30年。身長185センチ体重120キロで、ちょっとしたお相撲さんタイプです。彼のアシスタントは29歳のマウリッチオで193センチの125キロ。いつもニコニコ顔ですが、「組み手大好き」というタイプで驚くほど食べます。
ララッシュは既にオスカーが過去4回もセミナー指導に来ているので、自成道の基本は伝わっていました。
しかも、今回はオスカーとサビノが手伝ってくれたので、大変充実した指導をすることができました。
稽古は、1)矢山気功、2)自成道の基本技、3)太極拳と続けた上で、4)立禅を基にした稽古に入っていき、いわゆる内家拳の方法の基礎から手をつけていきました。みんな熱心によく稽古し、自成道の基礎は確実に伝わったと実感しました。
ララッシュの道場は30人で一杯ですが毎日40人以上の参加者で、道場の広さの関係で今回は稽古に参加できないので遠くから見学するだけという人もかなりいました。

ララッシュのセミナーの後、ヤヤ君の運転する車でマラケッシュに南下しました。
マラケッシュに行ったのは私の家内の生地を訪れるためでした。
家内の父親はもと軍人で、モロッコがフランスの植民地であった時代に、フランス空軍部隊に所属し、マラケッシュの基地で働いていました。この時期に家内はマラケッシュの町で生まれ6歳までここで過ごし、その後父親の転勤のためドイツに渡り、11歳になって初めてフランスに戻ってきたのです。
6歳までとはいえ、彼女にとっては幼い頃の思い出深い所です。
彼女の趣味は絵を描くことと庭で植物を育てることです。フランスでは珍しい植物を好んで植えるのですが、私はマラケッシュに行っって初めてその理由が分かった気がしました。庭とか色彩に関する彼女の美感覚の原点は、マラケッシュでの生活体験にあると直感しました。マラケッシュのいたるところで、私にも馴染み深い花や樹木を見た思いがしたのです。
6歳といえばまだ小さい子供ですが、それでも色々な場所や出来事の記憶があるのです。このことは私自身の過去とその重みについて考えさせられる契機になりました。自分の感性や性格形成がどのような生活体験につながっているか、考えてみることは誰にとっても大切なのではないでしょうか?

そういう訳で、今回のモロッコのセミナーには家内を連れて行きました。
彼女の家族がモロッコを引き上げたのはもう46年も前ですが、彼女の記憶を辿って、家族が当時住んでいたアパートを探しました。マラケッシュの町は当時とは比較にならないほど近代化して大きくなっており、見つけるのは容易ではありませんでした。タクシーの運転手に当時の状況を話して、一緒に探してもらい、やっとそれらしい場所に着きました。アパートの建物は残っていますが、周囲には多種多様の建物が建って、全く別な空間に変貌しています。
家内はタクシーを降りて建物をしばらく眺めると、
「ここに間違いないと思う」
「住んでいたのは多分あの三階のドアの家だったと思う」と、指差します。
一緒にその三階の家の入り口まで行ってあたりを眺めます。
「ここだわ。この家に住んでいたのよ。」
入り口から回廊や家のたたずまいに目を移しながら、しばしの感慨に耽ったことでした。

その夜、彼女はフランスの父親に確認の電話を入れたのですが、その家に間違いなかったようです。
そういう経過で私たちはマラケッシュで2日間過ごし、彼女の記憶をたどりながら思い出のある所を選んで観光しました。私はどこに行っても観光などすることは殆どないので、今回は貴重な体験でした。
マラケッシュはとても美しい庭のある生き生きした町でした。来年は多分ここでもセミナーをすることになるでしょうとヤヤ君は言ってくれました。

マラケッシュで二日間の骨休みをした後、カザブランカまで再び車で北上し、ここで2日間のセミナー指導をし、再びララッシュに戻って最後の稽古をしました。
ヤヤ君は「今回は貴重な宝物を頂きました。次回お目にかかる時、上達したと言われるようにしっかりやります。」と真面目な表情で言ってくれました。生徒達の間に友好的な雰囲気があふれ、稽古を通して結束力がさらに高まったのを見て、私も来た甲斐があったと思いました。
次回は今年の11月に1週間のセミナー指導に行く予定です。
日本から参加したい方は前もって連絡して下さい。

モロッコに私が初めて来たのは今から15年前のことです。
この時はモロッコ空手連盟の招待で、セミナーには250人以上の参加者で大きな体育館がいっぱいになるほど盛況でした。ところが今日ではどこに行っても、昔の空手の面影はありません。空手は不況です。それはモロッコだけではなく、ヨーロッパのどの国に行っても、多かれ少なかれ同様な現象が起こっています。その原因は一口に言えるものではありませんが、年をとって溌剌とした健康体を持って光る技を見せることのできる人が大変少ない、という現状が原因の一つではないでしょうか?年をとったら、自分はあんなふうにはなりたくないと思ったら、誰もやりたくはないでしょう。ヨーロッパに空手が紹介されて既に45年以上たっているのですから色々な変化があっても不思議ではありません。
いわゆる伝統空手の不況とは逆に、エアロビックとボクシングのあいの子のような空手が流行りかけているようですが、長続きはしないだろうと思います。伝統的な流れと逆行するようなこうした色々な身体活動が出てくるのは、現在社会の特徴でもあるようです。
自成道もこうした流れの中で捉えられても仕方ありません。自成道にも空手出身の人がよく来ます。そういう人達はいずれも自分がやってきた空手に満足できず、何か別のものを求めていると言います。私自身、空手を長年やってきたので、その意味やニュアンスはよく理解できるつもりです。
空手は本来は立派な武術なのですが、スポーツ化する過程で様々な身体技術の方法が単純化されていき、重要な部分が欠落する結果になっている面があります。それは空手にとって不幸なことです。しかし、現在まで伝わっている空手の流れの中には、古い空手が持ってい微妙な身体技法を伝えることのできる先生もおられます。だから、一概に「現在の空手は」と決め付けることは避けるべきです。但し、大きな流れとしての空手の内容や状況が変化してしまったことは事実です。
こうした現象と現況について議論を進めようと思うならば、しっかりと腰を落ち着けてする必要があります。何故こうなったか、今後どう変化するだろうか、どうするべきか等々、一口に言い切ることはできません。
その機会があれば、そうした真剣な議論をやってみたいと思っています。

2月中旬から3月いっぱいは私の地方セミナーの多い時期になりました。
オスカーは今年50歳。まだ空手ブームが続いていた20数年前にプロの空手教師として立ち、一時期は弟子の数が300人を越えたそうです。当時、彼ははビルバオの西にあるサンタンデールに住んでいました。話が飛びますが、世界史の教科書の最初のページに「アルタミラの洞窟絵」というのがあったのを憶えていますか?
このアルタミラはサンタンデールのすぐ近くにあります。

オスカーは自分のやる空手に疑問を持ち始め、自分が納得できる空手を求めていく過程で私と出会って弟子入りしました。それはもう17年も前の話です。出会った当時は髪の毛がふさふさしていたそうですが、今では禿げ頭のオスカーに馴染んでしまったので、当時の面影は写真を見て思い出すしかありません。
当時、私は「意拳」の修行に打ち込んでいました。空手着を着た時は古流の空手と意拳を融合した形でやっていました。それを人から空手と呼ばれようと、中国武術と呼ばれようと私にはどうでもよいことでした。武道は自分の身体から滲み出てくるものをやる以外ありません。外目には変わった空手と映ったと思いますが、オスカーとは武的な波長があったのでしょう。それ以来ずっと私に付いてきてくれました。
但しそのような空手は、どうしてもスポーツ的なシステムからはみ出してしまいます。当時オスカーは80人ばかり弟子がいたのですが、私のところに弟子入りして半年後には20人足らずに減ってしまいました。自分で納得できない空手をやることで弟子を引き止めるようなことは、彼にはできなかったのです。とてもプロとしてやっていくことはできなくなり、看護夫の資格を取って病院やクリニックで働きながら、少数の弟子たちと一緒に稽古を続けてきました。
その熱意と我慢強さには頭が下がります。

数年前サンタンデールからビルバオに移り、自成道の道場を設立しました。生徒数は70人に増え、再びプロとしてやっていけるようになりました。これからぐんぐん伸びて行くと思います。スペイン、特にビルバオは私の住んでいる所から車で4時間の距離ですので、できるだけ一緒に稽古できる機会を持てるようにしたいと思っています。
今回のセミナーのテーマはエネルギーダンスで40人余りの参加者があり、男性が35%女性が65%の割合でした。エネルギーダンスは、以前日本で紹介した時に比べるとかなり変化し、レベルアップしたと思っています。
次回のセミナーの時に詳しく紹介します。

参加者の中にはスペイン空手連盟の5段と7段の空手師範がいました。両人とも、「自分のやる空手に行き詰まりを感じています」と言っていました。
「ダンスといっても自分のやってきた空手よりもずっとダイナミックで、武的な動きをはるかに深く磨くことができます」
次回のセミナーにも是非参加したいと言っていました。
エネルギーダンスは矢山さんの大周天気功の基本功の動きを元に、私が意拳で学んだことを加えて作ったものです。「わが中心を求めて自旋の運動をすることによって大周天をめざす」という考えから、「自旋」という名称を考えてみました。
オスカーのところで今回撮影したDVDは、近いうちにインターネットも出し、反響を見たいと思っています。
ただ、エネルギーダンスという名称は誰でも使えますので、自成道の方法論に根ざした固有のダンスという意味で「自旋」と呼ぶことにしました。

武道をやる人の中には「ダンスなんて」と蔑視する人がいるでしょうが、「では、自旋で踊るように動いてみてください」というと、中々動けないものです。素手武道では自由に動けることが有効性の第一条件です。私としては「動く」ということを学ぶ最適なメソッドだと思います。それは私一人で作ったものではなく、矢山さんから教わった大周天気功と、意拳から学んだことの基礎のお陰です。
自由に動く訳ですが、そのためには「自由に」ということが何を意味するかを体認する必要があります。「自由」というのは何をやってもいいということではありません。身体の「自由」ということが含んでいる「重さ」を、本当に認識する必要があります。この「重さ」を楽にこなすことによって、初めて自由に動くことができるのだと思います。
社会生活でも同様で、一人で生きているわけではないのだから、「自由」ということの中には当然「責任」ということが入ってきます。自分の持ち場にある「責任」という重さをこなすことによって、自由ということを享受できるのだと思います。
そういうことで、「自由に動く」ということには段階があります。簡単に言えば、「脱力して自由に動く」ことから「武的な威力をこめて自由に動く」レベルまで、幾つかの段階があります。しかも、これでよいというレベルはありません。
このテーマでいずれ詳しく書くつもりです。
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